垂乳根日誌

読んだり書いたり育てたり。自分のための記録ですが、よければどうぞ。

深夜の読書で(しか)自由を味わえ(ない)

深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと

深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと

 

 

「家で雑につくるサッポロ一番とかのラーメンが好きで、

 よそのおうちの”家ラーメン”の味がめちゃくちゃ気になるので

 友だちに頼み込んで作ってもらう」

みたいな、着眼点と筆力が命のエピソードがずらりと並んでいる本で、

でも着眼点も筆力もすごく良すぎて

帯では岸正彦さんが「これぞ生活史」と絶賛している、そんな本。

 

とにかく表題作の「深夜バスに100回くらい乗ってわかったこと」を読むだに

大学生くらいのときには確かに手にしていた、(そしていまは見る影もない)

「私の自由」を強烈に意識することになった。

恨み言でもなんでもなく、

かわいい嬢と坊を育てることとトレードオフ

いったん放棄している自由がただただまぶしい。

誰の機嫌も体調も気にすることなく、

自分の身一つでふらっと長距離を移動するようなことって、

これからの私の人生に本当にもう一度訪れるんだろうか。

その時には、今のこのかわいい嬢と坊のことを思い出して、

ちょっと寂しくなったりするんだろうか。

 

深夜、子どもがやっと寝た後、一瞬迷ってからもそもそと起き出し、

今日はしょうがを刻んで砂糖で煮て、ジンジャーシロップを作り、

お湯割りでチビチビやりながら(咳き込むくらい辛い)(本当はお酒飲みたい)

このまぶしい自由の本をパラパラめくったのでした。

わたしの自由はほんとうにささやかで限られたものだけれど、

この深夜の読書タイムが昼間のご機嫌な母さんをしっかり支えている。

いつか私も2000円で東京に行って、

朝の光をまぶしく感じながら背中バキバキで夜行バスから降り、

まっさらな一日を自由に過ごすのだ。

 

久しぶりの登園は晴れ晴れ

4歳嬢の登園自粛が明けて、晴れて2か月半ぶりの保育園へ。

登園の前夜は「行きたくない…」と私や夫にかわるがわるしがみついていたけれど、朝起きるとテキパキ自分で準備して、園舎でのバイバイも超あっさり。夕方迎えに行くと「行くときはドキドキしたけど、めっちゃ楽しかったぁぁぁ」とのこと。

 

家で親に甘えるのが好きで、自粛生活もこれ幸いと満喫していたようだったので、保育園復帰はかなり大変かもしれないと勝手に危惧していた母は本当に驚いて、すごく嬉しくて、少し寂しかった。

 

自粛生活の終盤、母である私自身も幼児と乳児と1日中一緒に暮らすということにやっと慣れてきたのだった。というか、嬢の誕生から4年半もたってようやく、子どもといるときは子どもの尺度を優先しようという気持ちが腑に落ちた。暑い中公園を3つはしごするとか、電車に乗りたいからと目的地もなくただ電車に乗るとか、マスターしたての自転車で延々町中を散歩する嬢を坊を抱っこして追い掛け回すとか、そういうのは産前に想像していた「育児」のイメージには含まれていなかった。嬢は1歳から保育園で上手に育ててもらってきたのもあって、嬢が本気で楽しむにはどれほどの活動量が必要で、大人には完全に無為と思われる行動が幼児本人にはどれだけ大切な意義を持つのか、本当にはわかっていなかった。

 

ただの週末なら、公園に行こうという嬢を「そうねーでもママちょっと疲れているから先に積み木であそばない?」「絵本買いに行こっか。一緒にお菓子も買おう」と自分の趣味嗜好に誘導してもなんとかごまかせた。でも毎日ごまかし続けるわけにはいかない。特に珍しい遊具があるわけでもない近所の公園で溌剌と遊び、満足してはちきれんばかりの笑みを浮かべる顔を目の当たりにして、やっと嬢の生態を理解し、家事は最小限、自分の時間は子が寝た後にして嬢に時間を割いた。周回遅れなのかもしれないが、これまでにない密度で子を観察して、自分なりに子に向き合うことができた。

 

 

嬢は自粛中に自転車とキックボードをマスターし、長編映画の楽しみを覚え、夜のオムツがはずれ、排便後の後始末をほとんど自分でできるようになった。生活習慣も保育園任せだったので、親が教えたのは初めて。大変で、文句も言ったけれど、自粛生活がもたらした実りも確かにあった。

 

とはいえ、久々に登園した娘を送り届けたあとはひとり祝杯をあげたよね。ほんとお疲れ自分。普段は読んだ本のリンクを貼るけれど、自粛最終盤は本を読む気力もなかったのだ。

ちっさい魔女の話

「ちっさい魔女の話がみたい」と嬢が言う。何かと思ったらジブリの『魔女の宅急便』だった。主人公はあなたよりずっと大きいから、母はすぐにはわからなかったよ。

 

 

魔女の宅急便 [DVD]

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  • 発売日: 2014/07/16
  • メディア: DVD
 

 

 

夫と些細なことで言い合いになって、話し合いの下手な夫がいつも通り無理やり話を切り上げようとしたと思ったら、寝室に向かう前にイタチの最後っ屁のように「子どもたちにイライラするというより、子どもたちにイライラする君にイライラする」と言われた。「どこの家庭でもそうだと思うけど」と枕詞がついていた。

 

我が家は家事育児を夫婦でうまく分担しているほうだとは思う。でも、子どもが「ママ―!」と呼びつける回数はパパが呼ばれる回数の何倍、いや何十倍で、献立を考えたり、季節の洋服を揃えたり、坊の成長に合わせて離乳食を加減したりする日々の細々とした調整仕事はほとんど私が担っていて、コロナ自粛では育休中の私が基本ワンオペで、それでも子どもたちが楽しく過ごせるようにと工夫して心配りをしてきたというのに!夕食から風呂までのツーオペタイムでさえ時折イラついているあなたに、私のイライラがわかるか。そりゃ配偶者がイライラしているのは嫌だろうけれど、思いを汲んで努力をたたえたり、励ましてくれたりしてもいいんじゃないか。大変立腹し、2日経った今でも少し怒っている。

 

しかし、怒りとは別に、私は私のイライラを正当化しすぎていると感じたのも事実。育児のストレスは巷でも認知され、難しい時期の4歳児と手のかかる0歳児を抱えていたら私はイライラして当然、それを家庭の中で多少表出させても、家族がそれで嫌な思いをしても仕方ないと。私は悪くない、今はだれもが大変な時だもの、悪いのは私が思うとおりに行動しない夫だと。

 

さて、仮に私が夫の立場だとすると、不機嫌で人を支配するような行いには即激怒して改めさせるだろう。4年前に嬢を生んで、自分には自由がなく、夫の方にある程度の自由が残されている状況に猛烈な不満を覚え、夫と話し合いを尽くして家事と育児を分担できるところまでこぎつけた過程で、不機嫌であることに麻痺してしまった感がある。心の中では半分くらいは、仕方ないよ、大変な毎日をそれでもよりよくあろうとして何とかこなしてきたんだから、と思っているが、かと言ってずっとこのままだと困るような。これ、治るんだろうか。

 

イライラを指摘されてから、少しイライラの閾値をあげるように意識している。そして、嬢と坊に対しては思いのほかうまくいっている。偶然かもしれないけれど、今日嬢が何かに無邪気に喜んでいるときに、坊を生んで以来初めて「子どもらしくてかわいい」と猛烈に感じた。坊が生まれてから、4歳の嬢が大人に見えていた。半年ぶりに、嬢を嬢として素直に見られたのではないか。

 

イライラしない母なんていないと断言できるし、もしいたとしても自分はその器ではないが、時には『魔女の宅急便』のオソノさんのようにおおらかな気持ちで暮らしてもいいのではないか。おちょこのような自分の器量が、少しは大きくなることを願う。

家族最初の日

嬢に食べさせ、坊に乳をやっているうちに何をするでもなく1日が終わっている!

 

今日休みだった夫は、狭い庭に工夫して子どもの砂場をつくり、家の前で近所の子と遊ぶ嬢に目配りし、買い物に出て、餃子のタネを作り、嬢と包んで、焼いてくれた。

 

わたしが坊とソファに横たわり、うとうとしながら乳を含ませ、隙を見てのうのうと読書しながらコーヒー牛乳を貪り飲んでいるいるうちにこれだけのことをやってのけるとは。砂場の木枠には防腐処理をし、金具を使って固定して、砂場の底面に除草シートまで敷いていた。そのエネルギーをちょっとわけてほしい。

 

最近嬢が、どうせいちばんかわいいのは坊ちゃんでしょ、なんていうものだから、呼んで内緒話で「嬢が世界でいちばんかわいい。これは嬢とママとの秘密である」と告げたら、この1週間ほど毎日「世界でいちばんかわいいのは?」とコソコソ声で聞きにくる。白雪姫かよ。「嬢だよ。内緒だよ」と答えると満足そうに遊びに戻る。少し不憫だがかわいい。

 

 

家族最初の日 (ちくま文庫)

家族最初の日 (ちくま文庫)

 

 

少し前に買ってなぜか積ん読になっていたこれを本棚に見つけてラッキーな気持ちになる。まさに植本さんが育児に奔走していた時期の記録、身につまされて読む。やっぱり乳幼児とのワンオペはきついよね、とか思いながら。

 

それにしても他人の日記ってどうしてこんなに面白いんだろう。なぜメモのようなこれらの日記が書籍として成立するのか。

 

もちろん登場する人の魅力や生活のおかしみ、書く人考えや文書が面白いことが不可欠なのだろうが、読者の側の「他人の生活をのぞいてみたい」という褒められたものではない好奇心につけこまれていると言えなくもない。高山なおみさんの『日々ごはん』とか『今日も一日、ぶじ日記』も好き。ぶじ日記の続刊、はやく文庫化されないかしら。

我が家とコロナと春の散歩

村井理子さんの『兄の終い』を読む。

 

兄の終い

兄の終い

  • 作者:村井 理子
  • 発売日: 2020/03/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

翻訳者の村井さんのお兄さんが亡くなったときの実話。

実話も実話で、昨年秋に起こったほやほやの実話。

村井さんの理知的だけれど情感豊かというか、ロジカルだけれどユーモラスというか、その思考と語り口が好きで手に取った。

 

実の兄の死というとてもプライベートな内容を書籍にすることについて、そしてそういうことを金儲けのタネにして、としばしば批判されることについて、「書いた理由は書きたいからでそれ以外ない」と言い切ってらしたのがとてもとても素敵。確かtwitterでお見掛けしたのだったか。

素人でも、何かエモいことが起こったときなんかは「あぁこの気持ちを忘れないように書き残したいなぁ」と感じるんだもの。プロの衝動はそれは激しいものでしょうね。

 

そして新型コロナ。

昨年秋に0歳坊が生まれてすぐに熱を出して入院したため(いろいろと検査をした結果、たぶんただの風邪だった)、インフルエンザはじめあらゆる菌とウイルスを恐れて引きこもり気味だったこの冬。よって、外出自粛もまずまずその延長で、それほどインパクトなし。この4月は職場復帰を見送って、育休継続中なので余計に。

 

ただ、4歳嬢も保育園を休んで家にいることが多く、4歳と0歳のまったくシンクロしない欲求に朝から晩まで答え続けねばならないことにはほとほと疲弊する。とても難しい時期の嬢とハチャメチャにぶつかりながら毎日暮らしている。ぶつかりすぎてわけがわからなくなって、朝令暮改を乱発し、全然だめ。

どうやら緊急事態宣言が出そうとあって、保育園もいよいよ腰を据えて自粛せねばなるまい。子どもと一緒に遊ぶのがそもそもあまり上手じゃないけれど、嬢が楽しく暮らすことが自分のQOLを爆上げすることでもあるので、ちょっと真面目に考えなければ。

 

自宅保育が煮詰まると(誤用だがまさにドロドロに煮詰まるのだ)、山裾のほうへ散歩に出かける。春爛漫の日、桜があちこちで満開で、菜の花も群れ咲いて、川のせせらぎなんかも聞こえて、人通りはほとんどなくものすごく静か。年にそう何度もない絶好の散歩日和だ。休みの夫と手を繋いだ嬢がリズミカルに歩くうしろを、坊のぬくもりと寝息を抱いて追いかけていると、コロナの蔓延なんてどこか遠い世界の話のよう。この世の中の喧騒と、コロナと嬢に翻弄される自分と、春を凝縮して一番美しい上澄みだけを掬い取ったような静かな散歩を、わたしも書き残したいと思ったのだ。

 

 

 

 

4歳と33歳の葛藤

4歳お嬢が葛藤している。

昨年、坊の誕生によってこれまで一身に受けていた両親の愛情が分散され、

とかく手のかかる坊のほうに注意が向きがちだからだろう。

 

同時にわたしも葛藤している。

これまで右肩上がりにカワイイを更新していたわたしの赤ちゃんが

急にヒトになった。

弟に嫉妬し、親に理屈をこね、反抗的な態度で愛情をねだる。

ものすごく愛していることには変わらないが、

もはや単にかわいがって、自分の一部のように世話をする対象ではない。

衣食・排泄のほとんどを自立し、明確な意思と未熟な思惑をもつヒト。

 

朝、保育園に行く時間が迫っているのになかなか着替えないお嬢。

苛立ちをあらわにしてしまったわたしに臆することなく、

ソファに寝そべったまま挑発的と言ってもいい態度で

着替えさせろと要求する。

自分でしなさいとつい冷たく言いながら坊の着替えに取り掛かると、

「なんで!坊ちゃんだけずるい!ママは!ずるい!」

と泣き叫ぶ。

愛する我が子に大声で泣きながら「ずるい!」と糾弾されると

理不尽とわかっていても堪える。

同時に、ものすごく求められているのにやっと気づいて

素直に嬢の着替えも手伝う。

どうせ手伝うなら、断らずに最初から手伝えばよかったといつも思う。

 

 

〈ひと〉の現象学 (ちくま学芸文庫)

〈ひと〉の現象学 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

産後、本が読めないと言いながらも

大学受験なんかで慣れ親しんだ鷲田さんなら少しくらいは、

と期待して読んだが目が滑る滑る。ほとんど理解できず。

しかし、〈家族〉の章は興味深く読んだ。

 

p.95----------------------------------------------------------------------------

引き剥がしの経験は、多くのばあい、

次子の誕生によってより強くうながされるだろう。

きょうだいの存在はたぶん憎しみからはじまるのだろう。

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「引き剥がし」というのは母子の引き剥がしだ。

坊の誕生と前後して、わたしと嬢は引き剥がしを経験しているのだな。

たしかに、嬢の葛藤にはやり場のない憎しみのようなものが

含まれているのかもしれない。

ほとんど自分の一部だった嬢が相対化されていくことが

さびしくもあり、頼もしくもあり。

そう、相対化されていく嬢のことを楽しみだと思えることに少し安堵する。

母は憎しみごと全部引き受けて、圧倒的に愛したい。

 

アウトプットしたい

第2子長男のお産の入院中に読了。

 

本を読めなくなった人のための読書論

本を読めなくなった人のための読書論

  • 作者:若松 英輔
  • 出版社/メーカー: 亜紀書房
  • 発売日: 2019/09/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

「本を読めなくなった」と感じる人は多いのだろうね…。

 

 

私も長女の出産前後から特に本が読めなくなった。

長女の時は妊娠中から活字を追うのがしんどくなって、

『Arne』『Ku:nel』『暮しの手帖』みたいな雑誌ばかり読んでいた。

 

産院に持参した『ムーミン谷の冬』は2ページしか読めず。

産後3か月くらいで図書館で借りた『赤毛のアン』も、

時間をかけて返却期限ぎりぎりにやっと読み終えた記憶。

そして産後半年くらいだったか、

梨木香歩さんの『春になったら苺を摘みに』を読んで

やっと活字を読む感覚を取り戻し、梨木さんの文章が身体に染み入って、

じわじわと喜びが広がったときのことを覚えている。

 

それからはや3年と少し、やっぱり本が読めないと感じているわけです。

時間も余裕もないし、疲れているし寝たいし。

 

で、若松さんは『~読書論』のなかで何と言っていたかというと、

「読めないなら、書いてみれば?」と。

 

妊娠や乳児の育児というのは、

母体が子どもに体を乗っ取られるようなものだと感じていて、

妊娠中はもちろん、産んでからも抱っこや授乳で自分と乳児の境界があいまい。

乳児が痛がれば我がことのように自分も痛みを感じ、

泣けば心がざわついて、自分の入浴やトイレを差し置いても駆けつける。

 

そのなかで、それでもわたしはわたし、と自分の境界を取り戻したい衝動に

駆られることがあるわけで、それは夫やほかの人に話しても

本当にはわかってもらえない切実な気持ちで。

 

だから、自分のためにここでアウトプットしてみようと思う。

もともと頭の中だけで何かを深く考えるのが苦手な私にとって、

どうも記憶力が低下してきたと感じている私にとって、

おあつらえむきだと思うわけです。